ピラティスの歴史

ピラティス「コントロロジー」の誕生

第一次世界大戦が勃発した頃、JosephPilates(ジョセフ・ピラティス/ジョー)はボクサーとともにイングランドツアーをしていました。戦時中、彼は在住外国人としてランカスター近くの収容所に拘束されました。収容所では、拘留者の先頭に立って日課のエクササイズプログラムを指導していました。ジョーによれば1918~1919年にインフルエンザ(スペイン風邪)が流行した時にも、彼が担当していた収容所でエクササイズを行っていた人々の中で体調を崩した者は一人もいなかったそうです。
それが収容所のリーダーに注目され、マン島の病院で病棟勤務員としての仕事に就きました。そこでは30名の患者の担当となり、毎日患者が動ける範囲のエクササイズを行いました。これは西洋医学がまだ未熟で、手術かモルヒネの投与以外の治療法があまりなかった頃のことでした。この時代の看護はベットに安静することであり、それは筋委縮、有酸素量の欠乏、免疫力の低下をもたらしました。ジョーのエクササイズは患者の回復力を早め、同じような状況下で多くの人が命を落とした第二次感染を避けるのに役立ちました。
病棟勤務員として働いたことで、ジョーは最初のエクササイズ器具作りにとりかかることになりました。
30名の患者を手作業で毎日みることは大変だったので、患者のベットの枠にスプリングをつけるというアイデアを思いつきました。こうして最初のCadillac(キャデラック)が生まれたのです。おかげで患者はJoeの監督のもとで自分でエクササイズができるようになり、健康になっていきました。

アメリカでの「コントロロジー」の発展

ジョーが収容所から釈放されてドイツに戻ると、「ブラウンシャツ」と呼ばれるナチ突撃隊員から、警察部隊の訓練をする話が持ちかけられましたが、彼はナチ軍のためには何もしたくないと考え、船でドイツを出てアメリカへと向かいました。その旅の途中で、将来妻となるClara(クララ)に出会いました。クララは看護師でしたが、ジョーの真のパートナーとなり、毎日スタジオの彼のそばで働き、彼が見たがらなかったクライアントの世話をしていました。

2人が1926年にニューヨークに到着すると、8番街のニューヨークシティバレエと同じビルにスタジオを構え、ジョーが名付けた「コントロロジー」を教え始めました。彼はあらゆる職業のクライアントを看ましたが、テッド・ショーンやルース・セント・デニス、ジョージ・バランシンなどが、怪我をしたダンサーをリハビリのためジョーの元へ送ったことで、特にダンス業界に強く注意を向けていました。

ジョーは常に新しいエクササイズ器具を開発することに力を注いだ発明家でした。彼は生涯の間にユニバーサルリフォーマー、ワンダチェア、キャデラック、ラダーバレル、スパインコレクターなどの素晴らしい器具を設計しました。多くの機器は彼自身が作り、特定のクライアントに合うように設計することもしばしばありました。ジョーが考えたオリジナルの機器は、今でも使われています。

ジョーは、心身の健康という彼のビジョンを、生活の様々な場面で、小学校から軍隊のトレーニングまで幅広く導入したいという夢がありました。そして、それが先を行きすぎているものでなかったら、本当にそうなっていたかもしれません。そのかわり、彼は熱心な教師や生徒が集まった小さなグループを教 え、彼の革命的な考えに世の中が付いてくるようになるまで、その中の何人かが彼の考えを引き継ぎつないできました。ジョーは彼のやっていたことに耳を 傾けようとする人に対し、何年もかけて説明してきましたが、存命中はそれほど注目を集めませんでした。

1967年、ジョーのスタジオは火事で焼けてしまい、その後すぐに、煙を吸い込んだ後遺症で亡くなりました。彼の妻クララが、亡くなる1977年までスタジオは続きました。

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